・ 【横浜には和庭園の三渓園もあるのです】
横浜に来た当初は市電がありましたし、米軍のスーパーまで本牧にはありました、今では住宅街になっていますがそのことを知っている人は少なくなりました
「三溪園は生糸貿易により財を成した実業家 原 三溪によって、1906年(明治39)5月1日に公開されました。
175,000m2に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されています。
(現在、重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟)
東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる広大な土地は、三溪の手により1902年(明治35)頃から造成が始められ、
1914年(大正3)に外苑、1922年(大正11)に内苑が完成するに至りました。三溪が存命中は、新進芸術家の育成と支援の場ともなり、
前田青邨の「神輿振」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれました。
その後、戦災により大きな被害をうけ、1953年(昭和28年)、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるのを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、
復旧工事を実施し現在に至ります。」
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・ 【本牧の奥にひっそりありました】
三渓園の外側は埋め立て地です、本牧は横文字が並ぶ街ですが、三渓園ができた時代はそんなものは一切ありませんでした
「原 三溪(本名富太郎)(1868年/慶応4-1939年/昭和14)
岐阜県厚見郡佐波村(現在の岐阜県岐阜市柳津町)で代々に渡り、庄屋をつとめた青木家の長男として生まれました。
幼少の頃から絵、漢学、詩文を学び、1885年(明治18)東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学、政治・法律を学びました。
1888年(明治21)頃に跡見学校の助教師になり、1891年(明治24)に、教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿と結婚し、原家に入籍。
原家の家業を継ぐと、個人商社を合名会社へと改組、生糸輸出を始めるなどの経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として成功を収めました。
実業家以外にも様々な面を持ちあわせた三溪は、住まいを本牧・三之谷へ移すと古建築の移築を開始し、
1906年(明治39)三溪園を無料開園するほか、美術品の蒐集や芸術家の支援・育成を行いました。
1923年(大正12)の関東大震災後は、横浜市復興会長に就任し、それまでの作家支援を止め荒廃した横浜の復興に力を注ぎました。
三溪自身も書画をたしなみ、その作品の一部は、園内の三溪記念館に収蔵されています。」
今日行くのは三渓園が目的ではないので中に入るのは次回にします
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・ 【団体さんが大挙して入場していました】
古き横浜の代表的建築物がありますから高齢者向きの観光スポットですが、よく見ると外国人や若い人まで来ていました
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・ 【昔は外側は海だったのです】
三渓園ができた当初はすぐ海が迫っていましたが、埋め立てが何回も行われて周りは陸地になってしまいました
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ここも横浜の観光スポットです
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・ 【山手あたりは最も横浜らしい】
横浜に来た当初は誰もが思ってました、出船入船で賑わう港を見下ろし、伊勢佐木町の赤や青のネオン街を見ながら下宿を構え、
下を通るはフェリスの学生さんたちです、なんとなく女子学生に囲まれる華やいだ生活があると思ってました
(来る前に思っていたブルーライト横浜のイメージが住んでみると全く違う現実が僕を待ち受けてました)
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・ 【外人墓地がありました】
異国で眠っている人にもそれぞれの人生があったのです
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・ 【この下に元町通りがあるのです】
おしゃれなショッピング街の元町商店街の通りが横たわっているのですが、僕には全く縁がない所となっています
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・ 【ここも観光名所になっています】
そういえば函館にも外人墓地が函館山の麓にありまして似たような雰囲気でした
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横浜に来た当初は市電がありましたし、米軍のスーパーまで本牧にはありました、今では住宅街になっていますがそのことを知っている人は少なくなりました
「三溪園は生糸貿易により財を成した実業家 原 三溪によって、1906年(明治39)5月1日に公開されました。
175,000m2に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されています。
(現在、重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟)
東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる広大な土地は、三溪の手により1902年(明治35)頃から造成が始められ、
1914年(大正3)に外苑、1922年(大正11)に内苑が完成するに至りました。三溪が存命中は、新進芸術家の育成と支援の場ともなり、
前田青邨の「神輿振」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれました。
その後、戦災により大きな被害をうけ、1953年(昭和28年)、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるのを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、
復旧工事を実施し現在に至ります。」

・ 【本牧の奥にひっそりありました】
三渓園の外側は埋め立て地です、本牧は横文字が並ぶ街ですが、三渓園ができた時代はそんなものは一切ありませんでした
「原 三溪(本名富太郎)(1868年/慶応4-1939年/昭和14)
岐阜県厚見郡佐波村(現在の岐阜県岐阜市柳津町)で代々に渡り、庄屋をつとめた青木家の長男として生まれました。
幼少の頃から絵、漢学、詩文を学び、1885年(明治18)東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学、政治・法律を学びました。
1888年(明治21)頃に跡見学校の助教師になり、1891年(明治24)に、教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿と結婚し、原家に入籍。
原家の家業を継ぐと、個人商社を合名会社へと改組、生糸輸出を始めるなどの経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として成功を収めました。
実業家以外にも様々な面を持ちあわせた三溪は、住まいを本牧・三之谷へ移すと古建築の移築を開始し、
1906年(明治39)三溪園を無料開園するほか、美術品の蒐集や芸術家の支援・育成を行いました。
1923年(大正12)の関東大震災後は、横浜市復興会長に就任し、それまでの作家支援を止め荒廃した横浜の復興に力を注ぎました。
三溪自身も書画をたしなみ、その作品の一部は、園内の三溪記念館に収蔵されています。」
今日行くのは三渓園が目的ではないので中に入るのは次回にします

・ 【団体さんが大挙して入場していました】
古き横浜の代表的建築物がありますから高齢者向きの観光スポットですが、よく見ると外国人や若い人まで来ていました

・ 【昔は外側は海だったのです】
三渓園ができた当初はすぐ海が迫っていましたが、埋め立てが何回も行われて周りは陸地になってしまいました


ここも横浜の観光スポットです

・ 【山手あたりは最も横浜らしい】
横浜に来た当初は誰もが思ってました、出船入船で賑わう港を見下ろし、伊勢佐木町の赤や青のネオン街を見ながら下宿を構え、
下を通るはフェリスの学生さんたちです、なんとなく女子学生に囲まれる華やいだ生活があると思ってました
(来る前に思っていたブルーライト横浜のイメージが住んでみると全く違う現実が僕を待ち受けてました)

・ 【外人墓地がありました】
異国で眠っている人にもそれぞれの人生があったのです

・ 【この下に元町通りがあるのです】
おしゃれなショッピング街の元町商店街の通りが横たわっているのですが、僕には全く縁がない所となっています

・ 【ここも観光名所になっています】
そういえば函館にも外人墓地が函館山の麓にありまして似たような雰囲気でした

