・ 【かつて道南の日本海はにしんの豊漁に湧きました】
黒松内から日本海沿岸の寿都で出てきました、昔はここに鉄路もあったのです
寿都鉄道を紹介します
「1920年10月24日に路線が開通した。27日には役人や名士を招待し寿都駅前で開通式を挙行し、提灯行列や花火打上げなど町を
挙げての余興がおこなわれた。27・28日は無料運転となり7170形機関車が走った。旅客と貨物輸送を行い、利用客は年間10 - 13万人前後、
1946年のピーク時には31万人を運んだ。また、ニシン輸送の際には、魚油で列車がスリップしたというエピソードもあったらしい。
畑金吉は、政府に買い上げてもらうために、国会がある度に議員全員に陳情を行ったが、それが実現されることはなかった。
一方、事業資金債務は13年で償還し終え、順調な経営を進めていた。しかし、第二次世界大戦後、物価・人件費は高騰するのに対して、
運賃は物価庁からの許可が得られず数年間据え置かれたままであったことから、経営が次第に悪化し始めた。
1952年には経費削減の一環として、燃費のいいディーゼル機関車が導入されたりした(営業用としては北海道初)。
しかし、鉱山の閉山、ニシン漁の衰退、道路整備によるトラック輸送の増加、バス運行による鉄道利用客の減少により
経営は悪化する一方で、末期には1日に1往復であったが黒松内駅は国鉄の臨時列車があるときはホームが使用できず
黒松内行きは旅客扱いをしないという有様であった。それでも岩内線と連絡して函館本線の勾配緩和別線にする計画が存在していて、
国鉄による買収を期待しながらバスやタクシー・砕石など経営の多角化を図った。だが、
1968年に豪雨による河川増水で路盤が流出し、同年8月14日に運行休止に追い込まれた。」
北海道の廃線跡には色んな歴史があるのですね
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道南の海沿い国道は別名「にしん街道」となっていました
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・ 【ニシン街道という道がありました】
海沿いに道の駅が出来ていました、平地が少ないので建物だけの道の駅でした
昆布羊羹をお土産にしましたが、普通の羊羹でした
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・ 【ニシン船です、最近ニシンが釣れています】
最近太平洋岸ではニシン釣りが復活して、釣り人は100匹以上釣っていますが、これでもニシン復活とはいかないみたいです
ニシンは油を大量に含んでいました
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・ 【ニシンは干すと保存が出来ました】
ニシン油は硬化油となって、マーガリンや石鹸の原料にもなりました
干すと保存がきく「みがきニシン」となりました
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・ 【寿都の町はニシンで栄えました】
ニシンは生でも食べますが、干して数の子、みがきニシンとなって保存がきき、京都でニシンそばなるものの
原料になりました
(昔は干して数の子を作りました、今は塩数の子がほとんどですが、うま味は干し数の子に軍配があがるような気がします)
北海道には頼朝に追われた義経が蝦夷地まで逃げ延びて最後はモンゴルに渡って、後のチンギスハーンになった伝説がありました
(子供の頃は信じていました)
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・ 【北海道には義経伝説がありました】
弁慶岬には弁慶の像が立っていました
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・ 【弁慶岬がありました】
弁慶岬の言われです
「平安時代末期、弁慶の舎弟の海尊が義経再挙の兵を募って蝦夷へ向かったという情報を得た弁慶は、毎日毎日この岬の先端に立って
海尊の到着を待ち、そんな弁慶の姿を見ていたアイヌたちは、この岬のことをいつしか弁慶岬と呼ぶようになったとも言われている。
ゆえに弁慶岬の高台の上には想望と書かれた弁慶の仁王立ちした銅像が建っている。弁慶岬は高台の上にあるので眺めはいいが、
駐車場からよりも岬の西側にある大きな広場から見た方が眺めがいいだろう。広場からは日本海はもちろんの事、狩場山、茂津多岬、
積丹半島、雷電岬をも一望できる。大きな駐車場にはトイレも完備されており、そばには芝生の広場もある事から、
キャンプ場ではないが夏場になるとキャンプしている人が多く見られる。 」
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・ 【弁慶岬には灯台がありました】
さすがに今ではモンゴルに渡ってチンギスハーンになったとは書かれていません
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・ 【道南でもファミリーキャンパーが多くいました】
北海道の人はキャップ好きです、こんな寂しい所にもテントを張るのです
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黒松内から日本海沿岸の寿都で出てきました、昔はここに鉄路もあったのです
寿都鉄道を紹介します
「1920年10月24日に路線が開通した。27日には役人や名士を招待し寿都駅前で開通式を挙行し、提灯行列や花火打上げなど町を
挙げての余興がおこなわれた。27・28日は無料運転となり7170形機関車が走った。旅客と貨物輸送を行い、利用客は年間10 - 13万人前後、
1946年のピーク時には31万人を運んだ。また、ニシン輸送の際には、魚油で列車がスリップしたというエピソードもあったらしい。
畑金吉は、政府に買い上げてもらうために、国会がある度に議員全員に陳情を行ったが、それが実現されることはなかった。
一方、事業資金債務は13年で償還し終え、順調な経営を進めていた。しかし、第二次世界大戦後、物価・人件費は高騰するのに対して、
運賃は物価庁からの許可が得られず数年間据え置かれたままであったことから、経営が次第に悪化し始めた。
1952年には経費削減の一環として、燃費のいいディーゼル機関車が導入されたりした(営業用としては北海道初)。
しかし、鉱山の閉山、ニシン漁の衰退、道路整備によるトラック輸送の増加、バス運行による鉄道利用客の減少により
経営は悪化する一方で、末期には1日に1往復であったが黒松内駅は国鉄の臨時列車があるときはホームが使用できず
黒松内行きは旅客扱いをしないという有様であった。それでも岩内線と連絡して函館本線の勾配緩和別線にする計画が存在していて、
国鉄による買収を期待しながらバスやタクシー・砕石など経営の多角化を図った。だが、
1968年に豪雨による河川増水で路盤が流出し、同年8月14日に運行休止に追い込まれた。」
北海道の廃線跡には色んな歴史があるのですね


道南の海沿い国道は別名「にしん街道」となっていました

・ 【ニシン街道という道がありました】
海沿いに道の駅が出来ていました、平地が少ないので建物だけの道の駅でした
昆布羊羹をお土産にしましたが、普通の羊羹でした

・ 【ニシン船です、最近ニシンが釣れています】
最近太平洋岸ではニシン釣りが復活して、釣り人は100匹以上釣っていますが、これでもニシン復活とはいかないみたいです
ニシンは油を大量に含んでいました

・ 【ニシンは干すと保存が出来ました】
ニシン油は硬化油となって、マーガリンや石鹸の原料にもなりました
干すと保存がきく「みがきニシン」となりました

・ 【寿都の町はニシンで栄えました】
ニシンは生でも食べますが、干して数の子、みがきニシンとなって保存がきき、京都でニシンそばなるものの
原料になりました
(昔は干して数の子を作りました、今は塩数の子がほとんどですが、うま味は干し数の子に軍配があがるような気がします)
北海道には頼朝に追われた義経が蝦夷地まで逃げ延びて最後はモンゴルに渡って、後のチンギスハーンになった伝説がありました
(子供の頃は信じていました)

・ 【北海道には義経伝説がありました】
弁慶岬には弁慶の像が立っていました

・ 【弁慶岬がありました】
弁慶岬の言われです
「平安時代末期、弁慶の舎弟の海尊が義経再挙の兵を募って蝦夷へ向かったという情報を得た弁慶は、毎日毎日この岬の先端に立って
海尊の到着を待ち、そんな弁慶の姿を見ていたアイヌたちは、この岬のことをいつしか弁慶岬と呼ぶようになったとも言われている。
ゆえに弁慶岬の高台の上には想望と書かれた弁慶の仁王立ちした銅像が建っている。弁慶岬は高台の上にあるので眺めはいいが、
駐車場からよりも岬の西側にある大きな広場から見た方が眺めがいいだろう。広場からは日本海はもちろんの事、狩場山、茂津多岬、
積丹半島、雷電岬をも一望できる。大きな駐車場にはトイレも完備されており、そばには芝生の広場もある事から、
キャンプ場ではないが夏場になるとキャンプしている人が多く見られる。 」

・ 【弁慶岬には灯台がありました】
さすがに今ではモンゴルに渡ってチンギスハーンになったとは書かれていません

・ 【道南でもファミリーキャンパーが多くいました】
北海道の人はキャップ好きです、こんな寂しい所にもテントを張るのです

