・ 【瞽女さんの歴史は古いですが、僕は何も知りません】
「瞽女(ごぜ)とは、「盲御前(めくらごぜん)」という敬称に由来する
女性の盲人芸能者。近世までにはほぼ全国的に活躍し、20世紀には
新潟県を中心に北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓を弾き
唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人である。
女盲目(おんなめくら)と呼ばれる場合もある。時に売春をおこなうことも
あったが、このことは今日ではタブーとされる」
盲目の女性が生き抜くには大変な事だったとおもいます
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ご詠歌かお経のような歌のような気がしました
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・ 【今はいないと思います】
下記の記事がありました
「越後(新潟県)には長岡瞽女と高田瞽女の2派が大きくその組織を形成していた。
また山梨県には甲府の横近習町・飯田新町の総数200人を超える大きな組も存在し、
長野県では飯田、松本、松代など、岐阜県では高山など、静岡県では駿府、沼津、三島など、
愛知県、千葉県、埼玉県、群馬県、福岡県などでは多数の小さな組合があった。
生活手段として三味線を片手に各地を巡り、『葛の葉子別れ』等の説話や
その土地の風俗や出来事などを弾き語りしたり、独特の節回しを持つ
「瞽女唄(ごぜうた)」にして唄い語るもので、まだテレビやラジオが
普及していなかった時代、新潟県や東北地方など、主に豪雪地帯の村落などで
娯楽の一端を担っていた伝統芸能の一つである。
明治時代から昭和の初期には多数の瞽女が新潟県を中心に活躍していたが、
第二次大戦後、ほとんどの瞽女は廃業後に転職したために、その数は急速に
減少していった。小林ハルはその中で最後まで活躍した長岡瞽女であった。
後年、小林ハルは唯一の長岡瞽女唄伝承者として、その継承と保存に尽力してきた。
またハルの故郷である新潟県三条市には保存会も存在し、日本の伝統芸能の一つである
「長岡瞽女唄」を後世に伝承すべく、精力的に活動を続けている。」
戸田の部落は孤立した集落です、道路も無ければ交通手段は海路だけだったと思います
この集落に盲目の瞽女さんがやってきたのです
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大瀬崎から戸田の町まで中間に小さな井田集落があるだけです
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・ 【昔は道路でも難所でした】
確かに細い道路が沼津まで延びてはいましたが、未舗装で車は簡単に離合できません
雨が降ると最悪です、ほこりで前面が見えなくなり、路面がぬかるんで走行不能で車は真っ黒になりました、
道路と苦闘する事2時間の長丁場です、大瀬崎に抜けてほっとしたのを覚えています、
「井田」から山側にさらに上がるとみかん産地として有名な「西浦」に抜ける道がありました、
今では完全舗装の快適な道となっています
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ここから見える戸田港です、火山の爆裂港のように丸く半島に囲まれています
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・ 【伊豆で最も好きな場所です】
釣り良し、海水浴に良し、本当にひなびた集落です、今では沼津行きの連絡船が日に三便だけになりました
戸田の名物は昔ロシアの難破船を救った話や造船業と遠洋漁業の基地でもありましたが
200海里問題で漁業の基地としては寂れた町となっています、駿河湾の深海からあがる「タカアシガニ」や
名前もわからない深海魚の料理で食堂がにぎわっているだけです
(かつてこの港で一人つりをしていたら、バイク仲間の戸田さんが社員旅行でやってきて
「お前何やってんだ!」と言われて、戸田で偶然戸田さんと会えた幸せがありました)
その戸田さんも高齢ゆえ今はバイクに乗っていませんのは寂しい事です、大型バイクを辞めて
小さな原付バイクにすれば良いのにと思います、一度バイクを辞めて車になったら元に戻れないのでしょうか?
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「瞽女(ごぜ)とは、「盲御前(めくらごぜん)」という敬称に由来する
女性の盲人芸能者。近世までにはほぼ全国的に活躍し、20世紀には
新潟県を中心に北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓を弾き
唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人である。
女盲目(おんなめくら)と呼ばれる場合もある。時に売春をおこなうことも
あったが、このことは今日ではタブーとされる」
盲目の女性が生き抜くには大変な事だったとおもいます


ご詠歌かお経のような歌のような気がしました

・ 【今はいないと思います】
下記の記事がありました
「越後(新潟県)には長岡瞽女と高田瞽女の2派が大きくその組織を形成していた。
また山梨県には甲府の横近習町・飯田新町の総数200人を超える大きな組も存在し、
長野県では飯田、松本、松代など、岐阜県では高山など、静岡県では駿府、沼津、三島など、
愛知県、千葉県、埼玉県、群馬県、福岡県などでは多数の小さな組合があった。
生活手段として三味線を片手に各地を巡り、『葛の葉子別れ』等の説話や
その土地の風俗や出来事などを弾き語りしたり、独特の節回しを持つ
「瞽女唄(ごぜうた)」にして唄い語るもので、まだテレビやラジオが
普及していなかった時代、新潟県や東北地方など、主に豪雪地帯の村落などで
娯楽の一端を担っていた伝統芸能の一つである。
明治時代から昭和の初期には多数の瞽女が新潟県を中心に活躍していたが、
第二次大戦後、ほとんどの瞽女は廃業後に転職したために、その数は急速に
減少していった。小林ハルはその中で最後まで活躍した長岡瞽女であった。
後年、小林ハルは唯一の長岡瞽女唄伝承者として、その継承と保存に尽力してきた。
またハルの故郷である新潟県三条市には保存会も存在し、日本の伝統芸能の一つである
「長岡瞽女唄」を後世に伝承すべく、精力的に活動を続けている。」
戸田の部落は孤立した集落です、道路も無ければ交通手段は海路だけだったと思います
この集落に盲目の瞽女さんがやってきたのです


大瀬崎から戸田の町まで中間に小さな井田集落があるだけです

・ 【昔は道路でも難所でした】
確かに細い道路が沼津まで延びてはいましたが、未舗装で車は簡単に離合できません
雨が降ると最悪です、ほこりで前面が見えなくなり、路面がぬかるんで走行不能で車は真っ黒になりました、
道路と苦闘する事2時間の長丁場です、大瀬崎に抜けてほっとしたのを覚えています、
「井田」から山側にさらに上がるとみかん産地として有名な「西浦」に抜ける道がありました、
今では完全舗装の快適な道となっています


ここから見える戸田港です、火山の爆裂港のように丸く半島に囲まれています

・ 【伊豆で最も好きな場所です】
釣り良し、海水浴に良し、本当にひなびた集落です、今では沼津行きの連絡船が日に三便だけになりました
戸田の名物は昔ロシアの難破船を救った話や造船業と遠洋漁業の基地でもありましたが
200海里問題で漁業の基地としては寂れた町となっています、駿河湾の深海からあがる「タカアシガニ」や
名前もわからない深海魚の料理で食堂がにぎわっているだけです
(かつてこの港で一人つりをしていたら、バイク仲間の戸田さんが社員旅行でやってきて
「お前何やってんだ!」と言われて、戸田で偶然戸田さんと会えた幸せがありました)
その戸田さんも高齢ゆえ今はバイクに乗っていませんのは寂しい事です、大型バイクを辞めて
小さな原付バイクにすれば良いのにと思います、一度バイクを辞めて車になったら元に戻れないのでしょうか?

