・ 【僕より年配の人達はロシアが攻めてくると真顔で言います】
スターリンは日ソ不可侵条約を戦後のドサクサに紛れて反故にしただけでなく、日本の固有領土だった
国後、択捉、歯舞諸島、色丹島の北方領土に攻め込んで、背後から銃弾に追われて住民達は命からがら
ポンポン船に乗って引き上げてきました、この辺の事情を知ってる人は少なくなりました
(以来、北方領土は返還されることなく、日ソの平和条約だって締結していません)
領土問題は戦争して取り戻さない限り返還も無理だと言われる問題です、北方4島に住んでいた人もどんどん
高齢化しています、返還運動が衰退して、ロシアの実行支配がエスカレートしているような気がします
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ロシアの脅威に向かって、陸軍が旭川に駐屯していたのです、約1万人の兵士が寝起きしていました
陸軍第七師団
「北海道内を旭川連隊区・札幌連隊区・函館連隊区・釧路連隊区と4つに分けて
徴募に当たり、北海道の兵士で構成される建前であるが、北海道は人口が希薄であったために
1万人の兵力は捻出できず、実際には東北地方出身の兵も加えられた。」
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・ 【旧旭川階行社は修復中でした】
「前身は、戦前に帝国陸軍将校准士官の親睦・互助・学術研究組織として設立された同名の「偕行社」で
戦後は旧帝国陸軍の将校准士官・将校生徒(士官候補生(士官学校本科・航空士官学校生徒)
・予科士官学校生徒・幼年学校生徒など)および、陸上自衛隊・航空自衛隊の幹部自衛官OB・OGの
親睦・互助・学術研究組織として「偕行社」が再建された。
元々が旧陸軍の組織であったため、戦後も正会員は元将校・将校生徒・陸軍高等文官に限られていたが
会員の高齢化が進み、1992年(平成4年)に18,715人を数えた会員も死亡による退会者が毎年500名を
数える状況になり2001年(平成13年)の評議会において規則が改定され陸自・空自の元幹部自衛官の
正会員資格が認められるようになった。
会名の「偕行」とは詩経に収められている漢詩「修我甲兵 興子偕行」(訳:「鎧、打物、うち揃え
二人で行こうぜその時は」)に由来し、「共に行こう・共に軍に加わろう」の意。
機関紙『偕行』や、戦史資料集、詔勅集など幾つかの書籍を発行している」
軍隊、自衛隊の親睦機関で迎賓館的要素もあります、いろんな結婚式に参加したけれど制服組の結婚式は
威厳がありました、横須賀の潜水艦乗りと一緒になった社員の奥様、幸せになったでしょうか?
(夫婦愛、育児&子育て、色んな問題が夫婦には生じます、乗り越えて熟年夫婦になってるか思い出しました)
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陸軍第7師団は旭川にあったのです
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・ 【旧陸軍第七師団騎兵第七連隊覆馬場の建物が残ってました】
ネットから拝借です
「旧陸軍第七師団の大規模施設の一つ、1912(大正1)年〜1913(大正2)年の建築と推定されている。
明治末期〜大正初期に掛け、各連隊・大隊に設置されたもので、豪雪で寒冷地帯である
旭川では冬期間軍馬の運動不足、訓練不足の解決のために多数作られた軍馬を訓練するための施設。
良好な換気と採光が意図されており、越屋根や屋根窓等の開口部を多く設けている。
この辺りは、砲兵第七連隊・輜重第七大隊など特科が並んでいた場所だそうで、どの部隊も軍馬が
重用された部隊だったと言われている。
現存するのはこの1棟のみで、切妻造煉瓦建造物、鉄板葺。
覆馬場のすぐ横に建つ石碑「騎兵捜索 第七聯隊跡」は、旧陸軍第七師団騎兵第七連隊覆馬場とのこと。
2001(平成13)年、11月20日、有形文化財に登録された。
現在は、「旭川電気軌株式会社春光営業所整備工場」、旭川市民には馴染みの「あさでん」の
整備工場で、裏にはたくさんのバスが駐車している」
陸軍の建物らしい、レンガ作りですね、この建物は兵隊さん達の食堂だったのでしょうか?
(みんなが一同に会して行う事と言ったら食事しか考えられません)
食堂ではありません軍馬を飼っていた所なんです、履馬場と言ってたのですね!
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昔の戦争の忌まわしい遺物といったら仕方ありません、紛れもなく軍靴が響いた時代があって
その後、多くの悲しい犠牲の上に立って僕達が生まれました、再びあのような時代が来ない事を祈りたい
どんなに憲法で規定しても運用する側の考え方一つで警察予備隊から自衛隊へ
軍隊、集団防衛から派兵、そして徴兵、戦争へと繋がる歴史を繰り返すのは早すぎます
やはり経済発展という名の「他国を押しのけて勝利!」に酔っていると、日中韓ロの領土問題から
国家対立が発生するか、集団的自衛権発動から「戦争」状態に入っていきます
侵略戦争反対を唱えたって自分が侵略されれば「専守防衛」なんて言ってられません、
攻め込まれる前に潰せ!は防衛上の大きな課題なのです
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台風一過の秋晴れになりました、今週は孫の運動会もあります、朝の気温も低くて9月に入って始めて
長袖Yシャツ着用でした、昼間は暑くなりましたが、すっかり爽やかになって、秋本番になってきました
思い返せば今年の夏は暑かったです、異常気象で昨年も暑かったけれど、だんだん夏が暑くなってます
「秋刀魚」が水温が下がらずに北の海に留まって東北で獲れなくて高値です、「するめイカ」も水温が高くて
水揚げが伴いません、北の海を目の前にして南下する「戻りカツオ」も戻りが遅いのです
さらに北海道では「まぐろ」や「いなだ」も揚って、その内「ブリ」だって来そうな雰囲気です、
その代わりに「鮭」「鱒」が取れなくなります
昔から「サケマス」の魚場は油断したら船のロープに付いた水滴が凍って重くなって沈むと言われる冷たい
「北緯45度の荒海」と決まってまして、荒波吹きすさぶオフォーツク海、人跡未踏のアリューシャン列島、
酷寒の仕事場は男達の世界だったのです
(今は資源保護で母船式の北洋漁業も無くなり、南氷洋の鯨漁もなくなりました)
「函館」に集結していた北洋漁業基地が魚場に近いという事で「釧路」に移ったとき、親父も函館から
釧路に転勤になりました、「幣舞橋」の袂からいっせいに北洋を目指す船団を見送ったのです、
親父さんはその後「幣舞橋」の市民病院で胃潰瘍で倒れました、周りに頼れる親戚もなかったので、
心細かったお袋さんの心配顔が不安で、可愛そうだったのをおぼろげながら覚えています
(あの時母さんが病院から帰る時、向かってくるバイクとぶつっかって転倒したのははっきり頭に残ってます)
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スターリンは日ソ不可侵条約を戦後のドサクサに紛れて反故にしただけでなく、日本の固有領土だった
国後、択捉、歯舞諸島、色丹島の北方領土に攻め込んで、背後から銃弾に追われて住民達は命からがら
ポンポン船に乗って引き上げてきました、この辺の事情を知ってる人は少なくなりました
(以来、北方領土は返還されることなく、日ソの平和条約だって締結していません)
領土問題は戦争して取り戻さない限り返還も無理だと言われる問題です、北方4島に住んでいた人もどんどん
高齢化しています、返還運動が衰退して、ロシアの実行支配がエスカレートしているような気がします


ロシアの脅威に向かって、陸軍が旭川に駐屯していたのです、約1万人の兵士が寝起きしていました
陸軍第七師団
「北海道内を旭川連隊区・札幌連隊区・函館連隊区・釧路連隊区と4つに分けて
徴募に当たり、北海道の兵士で構成される建前であるが、北海道は人口が希薄であったために
1万人の兵力は捻出できず、実際には東北地方出身の兵も加えられた。」

・ 【旧旭川階行社は修復中でした】
「前身は、戦前に帝国陸軍将校准士官の親睦・互助・学術研究組織として設立された同名の「偕行社」で
戦後は旧帝国陸軍の将校准士官・将校生徒(士官候補生(士官学校本科・航空士官学校生徒)
・予科士官学校生徒・幼年学校生徒など)および、陸上自衛隊・航空自衛隊の幹部自衛官OB・OGの
親睦・互助・学術研究組織として「偕行社」が再建された。
元々が旧陸軍の組織であったため、戦後も正会員は元将校・将校生徒・陸軍高等文官に限られていたが
会員の高齢化が進み、1992年(平成4年)に18,715人を数えた会員も死亡による退会者が毎年500名を
数える状況になり2001年(平成13年)の評議会において規則が改定され陸自・空自の元幹部自衛官の
正会員資格が認められるようになった。
会名の「偕行」とは詩経に収められている漢詩「修我甲兵 興子偕行」(訳:「鎧、打物、うち揃え
二人で行こうぜその時は」)に由来し、「共に行こう・共に軍に加わろう」の意。
機関紙『偕行』や、戦史資料集、詔勅集など幾つかの書籍を発行している」
軍隊、自衛隊の親睦機関で迎賓館的要素もあります、いろんな結婚式に参加したけれど制服組の結婚式は
威厳がありました、横須賀の潜水艦乗りと一緒になった社員の奥様、幸せになったでしょうか?
(夫婦愛、育児&子育て、色んな問題が夫婦には生じます、乗り越えて熟年夫婦になってるか思い出しました)


陸軍第7師団は旭川にあったのです

・ 【旧陸軍第七師団騎兵第七連隊覆馬場の建物が残ってました】
ネットから拝借です
「旧陸軍第七師団の大規模施設の一つ、1912(大正1)年〜1913(大正2)年の建築と推定されている。
明治末期〜大正初期に掛け、各連隊・大隊に設置されたもので、豪雪で寒冷地帯である
旭川では冬期間軍馬の運動不足、訓練不足の解決のために多数作られた軍馬を訓練するための施設。
良好な換気と採光が意図されており、越屋根や屋根窓等の開口部を多く設けている。
この辺りは、砲兵第七連隊・輜重第七大隊など特科が並んでいた場所だそうで、どの部隊も軍馬が
重用された部隊だったと言われている。
現存するのはこの1棟のみで、切妻造煉瓦建造物、鉄板葺。
覆馬場のすぐ横に建つ石碑「騎兵捜索 第七聯隊跡」は、旧陸軍第七師団騎兵第七連隊覆馬場とのこと。
2001(平成13)年、11月20日、有形文化財に登録された。
現在は、「旭川電気軌株式会社春光営業所整備工場」、旭川市民には馴染みの「あさでん」の
整備工場で、裏にはたくさんのバスが駐車している」
陸軍の建物らしい、レンガ作りですね、この建物は兵隊さん達の食堂だったのでしょうか?
(みんなが一同に会して行う事と言ったら食事しか考えられません)
食堂ではありません軍馬を飼っていた所なんです、履馬場と言ってたのですね!


昔の戦争の忌まわしい遺物といったら仕方ありません、紛れもなく軍靴が響いた時代があって
その後、多くの悲しい犠牲の上に立って僕達が生まれました、再びあのような時代が来ない事を祈りたい
どんなに憲法で規定しても運用する側の考え方一つで警察予備隊から自衛隊へ
軍隊、集団防衛から派兵、そして徴兵、戦争へと繋がる歴史を繰り返すのは早すぎます
やはり経済発展という名の「他国を押しのけて勝利!」に酔っていると、日中韓ロの領土問題から
国家対立が発生するか、集団的自衛権発動から「戦争」状態に入っていきます
侵略戦争反対を唱えたって自分が侵略されれば「専守防衛」なんて言ってられません、
攻め込まれる前に潰せ!は防衛上の大きな課題なのです


台風一過の秋晴れになりました、今週は孫の運動会もあります、朝の気温も低くて9月に入って始めて
長袖Yシャツ着用でした、昼間は暑くなりましたが、すっかり爽やかになって、秋本番になってきました
思い返せば今年の夏は暑かったです、異常気象で昨年も暑かったけれど、だんだん夏が暑くなってます
「秋刀魚」が水温が下がらずに北の海に留まって東北で獲れなくて高値です、「するめイカ」も水温が高くて
水揚げが伴いません、北の海を目の前にして南下する「戻りカツオ」も戻りが遅いのです
さらに北海道では「まぐろ」や「いなだ」も揚って、その内「ブリ」だって来そうな雰囲気です、
その代わりに「鮭」「鱒」が取れなくなります
昔から「サケマス」の魚場は油断したら船のロープに付いた水滴が凍って重くなって沈むと言われる冷たい
「北緯45度の荒海」と決まってまして、荒波吹きすさぶオフォーツク海、人跡未踏のアリューシャン列島、
酷寒の仕事場は男達の世界だったのです
(今は資源保護で母船式の北洋漁業も無くなり、南氷洋の鯨漁もなくなりました)
「函館」に集結していた北洋漁業基地が魚場に近いという事で「釧路」に移ったとき、親父も函館から
釧路に転勤になりました、「幣舞橋」の袂からいっせいに北洋を目指す船団を見送ったのです、
親父さんはその後「幣舞橋」の市民病院で胃潰瘍で倒れました、周りに頼れる親戚もなかったので、
心細かったお袋さんの心配顔が不安で、可愛そうだったのをおぼろげながら覚えています
(あの時母さんが病院から帰る時、向かってくるバイクとぶつっかって転倒したのははっきり頭に残ってます)

