・ 【故郷は遠くにありて思うものですが】
道の駅が町中にあると買い物が便利、ごみが捨てられます(ごみ箱は館内に設置ですから24時間の利用はできません)
居酒屋も洋食店もあります、コインランドリーも温泉では無いけれどスーパー銭湯はあります、僕にとって
自然溢れるワイルドなキャンプ場もよいけれど旭川の道の駅は長居できる所なのです、しかしながらトイレの洗面台では
誰も挨拶を交わさない都会の中の孤独を十分に味わえます
・ 【僕の個人的な思い出の小学校でした】
建物は立て替えられて昔のマンモス学校の思い出はありません、若い教師さんにお会いして現在の啓明小学校が良く分かりました
(昭和35年頃在籍していました、あの頃NHKの歌唱コンクールで優勝したと言ってもピンとこない見たいです
65年も前の事ですが学校の沿革には載っていました)
・ 【校舎は完全に立替られいました】
一学年一クラス23人の組が2つで6学年合わせても12クラスしかありません、昔のマンモス小学校の木造校舎のイメージはありません
(僕らの時代は学年一クラス50人以上で7,8クラス位生徒がいたと思います)
僕らを担当したそばかす顔の濁沼先生や怒るとこめかみぴくぴくの河野先生はいずこにですが、誰も行方は知りません
・ 【今でも校庭には雪を踏み固めて上に水を撒いてスケートリンクを作るのですが】
とお聞きしたところ今はやっていないという事でした、昔はスキー遠足をやって井ノ沢までスキーをやりに行きました
学年で黒岳登山もやったのですと言ったら、ロープウエイの無い時代に登山もやっていたのですねと驚いていました
(当時の層雲峡の旅館のお風呂は脱衣所は男女別でも湯船は一緒でしたというと驚いていました)
これも男女平等というのでしょうか
・ 【この三角屋根は北海道の特徴でした】
65年前に同じ場所でそっくりなお家を見つけて驚きました、僕が住んでいた時は2軒で左右に分かれて住んでいました
社宅として借り上げて、もう一人は三人の娘さんが居たように思います
・ 【この辺には合同酒精の官舎が立ち並んでいました】
全く当時の面影はありません、門におばあさん立っていたので聞いてみますと昭和22年生まれでご本人も当時のマンモス小学校を覚えていました
(おばあさんではありません僕と変わらぬ年のお人でした)
・ 【都市計画されて道が広くなっていました】
目の前に住んでいた関口さんか関さんのお宅の面影もありません、65年振りに尋ねた場所は何もかもが変わっておりました
(希望に燃えて早く大人に成りたかった時代の小学4,5年の2年しかいませんでした)
僕は旭川で生まれたのですが、小学校入学の頃は札幌に親の転勤で行くことになったのです、札幌から函館に行って
回り回って旭川に戻って来たのです
旭川も2年間の短さで釧路に行ったのですが、ここで親友とも思える人物と出会えました、その後彼は元北海ホテルのコックとなって
横浜の我が家にもパレスホテルでコックのコンクールがあるとかで蝦夷鹿の肉を持ってやってきたのです
今までは電話すれば通じましたが、スマフォに変えた時電話番号を取り違えて、年賀状も見つからないので、途方に暮れております
旭川についた頃は異常気象とかで日中は大変暑かったです、昨日の雨で周囲の気温も一段と下がったようです
道の駅に集まる本州から来ている人は皆さん厚着しており、中にはダウンを羽織っている人もいました
地元の人は相変わらず半そでのようです、今日から旭川は旭川マルシェという食のイベントが開催されます
(このようなイベントには参加しない僕ですが、このイベントを楽しみに釧路からわざわざ来ている人がいました)
たまにはお祭りやイベントに参加しようと思います